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2005年05月17日

童女像(麗子花持てる) : かえるさんより vol.02.


麗子さんを描いてみました。

前回は、イントロダクションとして、麗子像の作者(麗子さん御本人の共同制作者の一人でもあるけど)の岸田劉生がヘンなオジサンだという論考をしてみました。

ここから初めて読む人の為に、前回同様、麗子像の作品をあらためて並べてみます。その時にも述べましたが、ここにある作品が代表作であるとか名作であるとは必ずしもありません。とりあへずの4作品です。

麗子像
麗子肖像(麗子五歳之像)
毛糸肩掛せる麗子像
麗子十六歳之像

ものづくし(click in the world!) 7.-2.:

麗子像 そのに

例えば、ある一人の画家があるテーマを基に作品制作を決意したとする。その場合、いきなりキャンバスの前に立ちはだかるなんて事はしないで、スケッチやデッサン等、ありとあらゆる可能性を試みる。一枚の絵に多くの群像が登場する作品なんかだと、その登場人物ひとりひとりに焦点を充てた習作を、先ずは制作する。個々の人物のポーズや全体に占める構図のポジショニングをはかるわけです。
そういった画家の悪戦苦闘の結果が、『****の習作』とか『****の作品の為のデッサン』という名で(彼の死後に)公表されて、彼や彼が残した大作や名作を理解する手がかりとなるわけですね。
例えばジェリコーの『メデューズ号の筏』では、あの劇的な空間を演出する為に、友人や知人に各々ポーズをとってもらって、幾つかのヴァージョンを経て、完成されたとか(本物の屍体も使われたという説もまことしやかに語られていますがどうなんでしょう)。
そういった画家とその作品の制作過程は、映画『美しき諍い女』(ジャック・リヴェット監督作品)や映画『カラヴァッジオ』(デレク・ジャーマン監督作品)で観る事も出来ます(いずれも画家とそのモデルとの関係とか、後々のこの駄文にもひっかかるテーマをも内包しています)。

ところで、面白いのはリアリズムを放棄したと思われる、印象派以降の、20世紀の画家たちもその過程を採用しているという事。
例えば、モネはあの睡蓮の絵を様々なヴァージョンで制作しているし(これは単に晩年の彼の視力がそうとう衰えた結果という内緒の話もあるのだけれども)。
マチスなんかは、あの大胆な色使いとデフォルメされ尽くされたくせにものの核心をつかむあの手法に辿りつくまでに、何枚も同じテーマの作品を描く。まずリアリズムの手法で描ききってから徐々に、彼にとっての余分な夾雑物をそぎ落していくという作業を経て行く。『ばら色の裸婦』ではその制作過程において少なくとも8枚の作品が描かれています。
20世紀アバンギャルド芸術の記念碑的作品、というか独身者(詳しくはミッシェル・カルージュの美術評論その名も『独身者の機械-未来のイヴ、さえも』を読んで下さい、気がむいたらどっかできちんと紹介します。cf.「ものづくし 1. 自転車」)にとっての記念碑的作品であるデュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)』でさえ、そのひとつひとつの構成物が単独の作品として描かれているんです(個人的には『チョコレート磨砕機』の朴念仁さが大好き)。
つまりですね、作品の思想としては「これまでの美術の概念を打ち破る」と解説される作品にも関わらず、いやもしかしたらそれだからこそ、泰西名画の歴史と伝統にきっちりと則って、描かれていたりする訳です。
たまたま、ひっくら返しに置いてあった自身の作品に、新たな美を”発見”してしまうカンディンスキーのいいかげんさなんて、例外中の例外なんでしょうね。

cf:参照せよ!
duchamphakataru.jpg
以上の事を踏まえて、岸田劉生の『麗子像』をあらためてよく観る。
娘の成長過程を丹念に見据えた親ば*っと、言いかけて口をつむぐんで、ふと考える。

作品を、作品として完成させるというのはどう言うことなんだろう。
モネ睡蓮で描こうとしたものは、そのあまり良くみえない眼に写る、日々刻々と移ろい行く光と影の戯れだろうし、マチスが描こうとしたものは、ものの色とかたちそのものだろうし...。つまり、画家自身が意識的(もしかしたら無意識的に?)に、今まさに描きつつある作品の到達形に向かっているわけですよね。決して、絵の具の塗っていない余白が無くなったからでも、パトロンやクライアントに納める為の〆切が来たからではないんですよね?(つーか、ホントはそっちが真実に近いんだろうけれどもさぁ)。

こんな風に考えるのは穿ちすぎだろうか? 
今、己の眼前にいる5才の麗子の肖像は、今、己が描きつつある。だが、果たして、今日の麗子はまた明日の麗子だろうか?明日の麗子は来年の麗子と同じだろうか? 麗子はいつ麗子として”完成”するのだろうか?
そんな事を岸田劉生が考えたとしたら?

と、謎が謎を呼んで?次回に続く。

<前回>
麗子像 そのいち
<次回予告>
麗子像 そのさん
麗子像 そのよん

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コメント

thanx 4 u-r comment

楽しんで頂けて幸いです。
まさか連載になるとは思わなかったけれども。

「童子像」は、なんか文字ばっかだと辛いなぁ〜と思って描いてみました。
最終的な結論めいたものを全然考えないで、行き当たりばったりで書き出しているんでこれから先どうなるか、検討つかないけれども、暖かい眼で見守って下さいな。

麗子像を取り上げてくださって、ありがとうございます。
たいとしはるさんの知識は幅広いですね。
論点もおもしろいです。
お願いしてよかった〜ヽ( ´ー`)ノ

絵もご自分でお描きになったのですか?
次回からも期待しております。

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