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2005年06月08日

笑童女洋装半身:かえるさんより vol.04.

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再び麗子さんを描いてみました。

漫画家細野不二彦の80年代の佳作に『あどりぶシネ倶楽部』がある。
少年誌からデヴューした彼が、青年誌に描き始めた時期の作品です。
主人公は、自主映画を制作している倶楽部員たち(そのメディアが8mmフィルムってのが時代を感じさせますが)。倶楽部初の単独連続上映会を企画しているリーダー兼プロデューサー監督に向かって放った言葉に次の様なものがありました。
「例え“映画”としては駄作であろうとも、主演女優に恋をして失恋してしまったその想いは、同じ“映画”を制作したものには伝わる筈。」
今回は、そんなお話です。

ここから初めて読む人の為に、これまでの第一回第二回そして第三回と同様、麗子像の作品をあらためて並べてみます。その時にも述べましたが、ここにある作品が代表作であるとか名作であるとは必ずしもありません。とりあへずの4作品です。
麗子像
麗子肖像(麗子五歳之像)
毛糸肩掛せる麗子像
麗子十六歳之像

ものづくし(click in the world!) 7.-4.:

麗子像

個人的な経験から話してみると、知り合いのカメラマンの奥さん達は何故かみんな美人です。
カメラマン達が彼女達を選ぶというのは、当たり前というか、まぁ、あれだ。頭の中では三日で飽きると解ってはいても、やはり三日で慣れる方よりはこっちを選ぶよね(ってオレこんな発言しててヤバくない?)。いやそれよりも、奥さん達の方が選択肢が多い筈なのに何故に彼を選んだのって頭の中に疑問符が湧きまくる吾人も多いのは否定出来ません。いや、人品は卑しからず、みなさん良い方々ばかりですよ、はい。

こんなヨタ話はさておき。

被写体と撮影者、もしくは、モデルとクリエイター、さもなければ、凝視するものと凝視されるもの、もうひとつ付け加えるならば、実験者と被験者。表現の仕方はいろいろあるけれども、”みるもの”と”みられるもの”の関係は、一方通行的な独身者の視線(cf.『独身者の機械?未来のイブ、さえも』)と考えがちだけれども、実は、双方向の交歓が存在するのだという事は、認識するべきでしょう。
”みられるもの”は一方的に”みるもの”への創造の女神(ミューズ)となるのではなく、その逆もあるのだと。”みられるもの”は”みるもの”の視線によって、美しくもなり素晴らしくもなり得るのです。
そして”みるもの”は”みられるもの”を”みる”事によって、また一方で、”みられるもの”は”みるもの”に”みられる”事によって、疑似恋愛に似た感情が生まれ、疑似恋愛からホンモノの恋愛感情へと移行していくものも、少なくはないようです。

アラーキーこと荒木経惟とその奥さんの陽子さん(作品はたくさんあるけれども、先ずは『わが愛、陽子』か?)や、ダリとガラ夫人や、マン・レイキキ・ド・モンパルナス(一般的なのは『アングルのヴァイオリン』か?)や、小津安二郎原節子や、おおくぼひさことその夫仲井戸麗市や、周防正行草刈民代(日本版『ShallWeダンス?』の事です)や、ヴァディムジェーン・フォンダ(『バーバレラ』の事です)やフェリーニジュリエッタ・マシーナ(『』や『魂のジュリエッタ』をあげるべきだけれども監督の愛という意味では『ジンジャーとフレッド』だな)や、ゴダールアンナ・カリーナ(『気狂いピエロ』最高ッす)や、ヒッチコックグレイス・ケリ−(『裏窓』で主人公を誘惑?する彼女や『ダイヤルMを廻せ!』で殺されかかって苦悶の表情をみせる彼女、はっきり言って監督の願望そのまんま)や、ウッディ・アレンダイアン・キートン(この世には二種類の人間しかいない、ウッディ・アレン作品をこよなく愛する人間とそうでない人間だ。すいません、ボク後者です)や、サルトルボーヴォワールや、ルイス・キャロルアリス・リデル(勿論、あの『不思議の国の〜』と『鏡の国の〜』のモデルとなった少女です)や...なかには例証には相応しくない方々も混じっているかもしれないけれども(苦笑)。
ヴァディムBBドヌーブだろうとか、グレイス・ケリ−モナコ国王妃になっちゃっただろうとか、キキ・ド・モンパルナスマン・レイだけの女神(ミューズ)ぢゃあないだろうキスリングぢゃあねいのかとか、アリス・リデルにとってはルイス・キャロルは単なるロリコンのストーカー以外の何者でもないだろうとか、いろいろあるのだけれども(作品自体が名作だったら我々は楽屋ウラには文句を言わない様に!)。
恋愛感情が先なのか、作品を創り上げる過程で疑似恋愛がホンモノになったのか、個々各々を検証していくゆとりはないのだけれども、ひとつだけ例証をあげるとすれば、アラーキーさんの制作過程では、モデルとカメラマン自身が疑似恋人となる様な状況に追い込んで、制作に入って行くようです(数年前にワイドショー・ネタにもなっちまいましたね)。

それで、本論の主人公である麗子さんとその父岸田劉生なのだけれども、この二人はどうなんだろうか?勿論、彼らは恋人どうしではなくて親娘なんだけれども、そこになにがしかの感情の交歓があったのか否かというと、かなり難しい問題です。幼女が成長して少女となりそして大人の女性となって行く過程を丹念に追跡していけば、二人のこころの揺らめきを探し求めて行けたかもしれません。しかし、残念ながら、画家は少女が16才の時に38才で急逝してしまうのです。
遊びたい盛りの幼女が父の為にぢっと微動だにしないでいる、その際の彼女の感情を慮るのは、けっこう難しい。
いや、難しいからこそ、ひとはこの作品群を、様々なポジションで観るのではないだろうか? 父の立場で観るもの、娘の立場で観るもの、一歩距離を置いて母の立場で観るもの、画商の立場で算盤片手に観るもの。
その一見、不細工で下手したら無気味とも思える様なあの”笑顔”からは、様々なものがたりを紡ぎ出す事が可能でしょう。

ときれいに纏めてこれでお終い。いかがでしたか?

<これまでの連載>
麗子像 そのいち
麗子像 そのに
麗子像 そのさん


ホントは、父娘の関係性から、浜口や宮里や横峰といった現在の父娘関係との差異を考えようかと思ったのだけれども、めんどくさいのでやめます。何故って、「父-息子」という旧来の関係性から「父-娘」への位相変換がメインテーマになるのだろうけれども、「母-息子」の旧来型から現在型への変遷や単なる仲良し姉妹でしかない現代の「母−娘」も考えなければならず。ちょっとテーマが大きすぎますです。

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