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2005年09月18日

追悼ロバート・ワイズ監督:ミュージカルは空撮から始まる

ロバート・ワイズ監督のふたつの代表作にして、かつミュージカル作品である『ウエスト・サイド物語』と『サウンド・オブ・ミュージック』は、そのいずれもが序曲を奏でながら上空からの俯瞰撮影で幕を開ける。
残念ながら、いずれの作品も映画館での上映体験はしていないので、スクリーンに映った際のスケール感や映像美は想像するしかない(あ、でもその昔、大学の大教室で観た『ウエスト・サイド物語』のは、結構大きかったかも?)。
各々のミュージカル楽曲のいわゆる美味しいところ取りをした序曲を聴きながら、延々と移し出されるタイトルバックは、ある意味で冗長だし、時代がかっていて鼻白む事は否定出来ない。けれども、それは家庭用ホームシアターで映画を観ようという、後の世の我々だから言える事であって、リアルタイムでこの2作品を体験したら、どの様な感慨を持つのだろうか?

と、いうところから筆を起こしていきたい。

cf.俯瞰撮影に関しては、こちらで、適切かつ簡単な説明がありました。参照願います。

先ず最初に思い起こさなければならない事は、いずれの作品もブロードウェイでの大ヒット作であって、その人気や評価を受けての映画化であるという事。監督として行わなければならないのは、ステージ上の成功をそっくりそのまま、もしくはそれ以上の完成度でもってスクリーン上に翻案しなければならないということだ。
その一つの手法として、リアリズムに徹するという事が挙げられる。ホンモノのN.Y.のウエストサイドやホンモノのオーストリアアルプスの風景を映し出す事。つまり舞台装置として完璧にホンモノを用意して、ホンモノだけが醸し出す事が出来る質感や空気感や匂いを、映画全体のトータル・イメージとして演出する、その為に、まずは、あの冗長とも言える俯瞰ショットが必要だというのは、簡単に解るだろう。
ここはミュージカルが上演される、N.Y.ブロードウェイではなくて、同じN.Y.でもきらびやかな街並みではなく貧困層の住まう地であり、平和な時代ではなくナチス政権下のオーストリアの一地方都市なのだ。つまりは、これから始まるのは「舞台」ではなくて「映画」なのだという、という意識付けを観る者にしっかりと植え付ける目的があったという事である。

ものづくし(click in the world!) 13. :

映画としての『ウエスト・サイド物語』と『サウンド・オブ・ミュージック』

でも、それ以上にそれぞれのシークエンスがそれぞれの物語において重要な役割を演じているという事もまた、指摘しない訳にはいかない。

ウエスト・サイド物語』冒頭の、海上からゆったりとマンハッタンの上空をなめて行くカメラの視線は、この物語の主人公である移民達の辿った視線に他ならない。
自由の女神に出迎えられた彼らが抱く、夢と希望に満ちた自由の国は、彼らが移り住まうウェストサイドに辿り着いた際には、既に厳しい現実(差別や貧困)をその国の正体として、彼らの眼前にさらけ出しているであろう。
その現実をさらに濃縮したかたちで、ふた組のティーンエイジャーの抗争が描かれて行くのである。
挿入曲のひとつ「アメリカ」で、この国に対する様々な憧れがひとつひとつ謳われていく中で、若者特有のニヒリズムでから笑いしながらも、最後のフレーズに彼らの苦々しい現実を折り込んでいる。
最初に我々が観る映像は、この楽曲の物言わぬ映像化でもあるのだ。
この時点で、この作品を観る者は、本作品が『ロミオとジュリエット』の現代版であるという事実を忘れて、全くオリジナルな物語を体験しているかの様な、想いに囚われて行く。

一方の、『サウンド・オブ・ミュージック』が物語冒頭で提示しているのは、アルプスの険しい山並である。
この山々の連なりは、物語のクライマックスで主人公の家族が立ち向かわなければならない厳しい自然、すなわち、主人公達が追手のナチスから追われつつ、越境して行かなければならない自然の要害である。本来ならば、この逃亡劇を最大の魅せ場としたアクション映画として描く事もまた可能だったのだろう。
しかし、この物語のメインテーマは言わずもがなだけれども、「音楽の再発見」である。この家族は、一度、失われた音楽を主人公と出会う事によって再発見し、その結果、家族が再生する。その過程を描く事に重点を置けば、自ずと家族が再生した後に待ち受ける受難、すなわち、逃亡劇はその再確認のエピソードであり、おまけの蛇足にすぎない事はあきらかである。
ナチスからの逃亡劇を最大の魅せ場としたアクション映画に堕する可能性も孕んでいるこの物語を、「音楽と家族の物語」に純化させる為に必要な大胆な物語の省略を可能にしているのが、冒頭の要害としてのアルプスの俯瞰撮影なのである。
映画を観る者は思い出すだろう、彼らはあそこを乗り越えていったんだ、と。

つまりは、いずれの映画もその映画の物語を成立させる舞台装置としての、時代設定や登場人物達の置かれた状況等を、無言で提示しているのが、それぞれの長回しの俯瞰映像なのである。

そして、その神の視線でゆったりと飛翔するカメラが急転直下、ジョージ・チャキリスのシャーク団やギターを抱えたジュリー・アンドリュースを発見して舞い降りた瞬間、彼らの物語「映画」はそこから始まるのである。

thesoundof music.jpgwestsidestory.jpg

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