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2005年05月12日

日本人「拘束」事件

齋藤昭彦氏拘束の第一報が流れてからほぼ二日。テロ組織側からのアクションがない中で、報道は今回の被害者の経歴に関心が向かっている。曰く、何が彼を戦場に向かわせたのか?
それよりも僕は、10日夕方に行われた氏の弟、博信氏の記者会見での言葉に注目せざるを得ない。
政府への要望を尋ねられた博信氏はこういった。
”イラク政策を変えることなく、揺らぐこともなく、兄の件とは別に主体的にイラクにいるべきかどうかを考えてほしい。いるべきだと思うなら、日本政府を支持します”
兄の救出をこそ最優先にして欲しいという切実な言葉の代わりに、博信氏に、この様な発言をさせたものの正体は一体なんだったのだろうか?

所謂「自己責任論」がそれを言わしめているのだろうか?
これまでの、イラクで起こった「日本人拘束事件」の被害者と今回の被害者を比較すれば、NGOボランティアやジャーナリストやバックパッカーよりも、確実に確信犯である事は否定出来ない。そこが危険地帯であり危険地帯であるが故に成立するビジネスのプロフェッショナル、つまりプロの戦争屋なのだから。
最初の拘束事件の時から、政府の要人は所謂「自己責任論」を主張していた上に、世論の一部もそれに同調して被害者家族にいわれなきバッシングをしていた事は記憶に新しい。
前者に対しては、単純にこういえば良い。確信犯といっても民間人である事には変わりない、プロ中のプロたる自衛隊員ならばどうしますか?ちゃんとシュミレーションしてくださいね。
問題は、後者の方である。
なぜならば、そこにあるのは、政策論的な裏付けや経済的な利潤とは全く無関係の、単なるキブンから始まっている、タチのわるいものだから。それは、大衆心理といってもよいのかもしれないけれども。
そして、その多分にキブン的な、うすグロいもやもやとしたものが、とてつもない重圧となって、博信氏に先の発言を言わしめているとしたら? それは、某国の様に、眼で見える形で自由な行動や発言を禁じられている事よりも、よりタチの悪いものではないでしょうか。
例えば、JR西日本の職員に対して行われている暴力やいやがらせも、家庭や学校や職場で行われている「いじめ」や「虐待」も、今回のうすグロいもいやもやとしたものと同じニオイが、僕にはします。

本当は、戦争請負人の事とか、戦争の民営化とか、今回の事件はいろんな事を語りかけているのだけれども、それよりも、記者会見を観た際の、居心地の悪さを先ずは吐き出したかったのです。

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